<今月のスター>
ジェニファー・ジョーンズ

The Life Story Of Jennifer Jones
小森和子
by Kazuko Komori
「映画の友」1951年9月号より


どなたでもいい、いい音楽を聴いたり、いい映画を見ている時、身体中にゾクゾクッと寒気がして肌を栗つぶを
生じる事がおありになりませんか?私が最近見た映画の中に、タイトルが映り音楽が始まっただけで既にこの現象を
呈したものが二つございます。
「ジェニーの肖像」と「白昼の決闘」がそれです。どちらも前から見たいみたいと希っていたものなので遂に時来れり
という感激も大きかったのでしょうが、とにかく素晴らしくて、私は見た後ため息ばかりしておりました。
二本ともセルズニックの製作、「ジェニーの肖像」がウィリアム・ディターレ、「白昼の決闘」がキング・ヴィダーの
監督でいずれも名匠と言われるこの人たちの演技指導もよろしかったのでしょうか、ジェニファーは全然異なった二つの
性格をまったく見事に演じておりました。
 彼女がハリウッド最高の名誉であるアカデミー賞で、その第一回主演映画「聖処女」で獲得した女優であることは皆様
すでにご存じの通りですが、彼女はその後一つ一つの作品によって、この栄誉が決して一時的の幸運によってもたらされたもの
でないことを裏付けしています。
 彼女の今日までの作品は、「聖処女」「君去りし後」「ラブレター」「小間使」「白昼の決闘」「ジェニーの肖像」
「We were Strangers」「ボヴァリー夫人」「女狐」「黄昏」があります。現在セルズニック夫人であり、彼秘蔵の女優で
あった彼女は、一年に一本ないし二本という寡作ですし、人気投票のベストテンに入るような派手な人気はありませんが、
最もユニークなパーソナリティーの一人として揺るぎない一を占めています。
 さいわい日本にも彼女の作品は「ラブレター」をはじめとして、「聖処女」「小間使」「ボヴァリー夫人」が紹介され
既に認められている方も多いと思いますが、つい先頃、彼女が国連軍慰問の為に来朝したことは私たちに一層の親しみを
増しました。先月号記事の淀川先生と彼女の会見記お分かりになるように、彼女の強い個性の魅力と美しさにはさすがの
先生もお心を撃たれたらしく、あの常時の興奮は先生にしては珍しい事でした。私も詳しくお話を伺ってすっかり彼女の
ファンになり、彼女に逢えなかったことをかえすがえすも心残りに思っています。
「ジェニーの肖像」に続いて「白昼の決闘」「君去りし後」が前後して公開され「女狐」も封切られたあかつきには、
必ずや彼女の人気は全日本に沸騰することでしょう。

舞台裏育ち
一九三〇年代の初め頃、オクラホマの田舎町を巡業する旅芝居のアイズリー一座は、常時の新派大悲劇を演し物に
なかなかの景気でした。モギリにはいつも十二、三歳ぐらいの女の子が立って愛嬌を振りまいていましたが、彼女は
幕が開く頃になると大急ぎで楽屋裏へ駆け込んで衣装を着けるのです。そして自分の出番が終わると今度は客席に
現れて、きれいな声でさも楽しげにピーナッツやキャンディーを売って歩くのでした。これが現在ハリウッド大一流
の性格女優としてときめくジェニファー・ジョーンズの幼き日の姿なのです。
 彼女は一九一九年三月二日、オクラホマ州タルサの町に、小屋掛けの一座を持つフィルとフローラ・アイズリーを
父母として生まれました。父は座長ばかりではなく、母とともにこのアイズリー一座の立役者で、娘フィリスはこの
両親の血を受け継いだのです。
 娘だけは立派な教育を受けさせたいと考えた両親は、お金に困らないのを幸い、自分たちの生活から離れたオクラホマ
シティーのパブリック・スクールへ彼女を入れましたが、勉強より先ずお芝居で、学校芝居の主役になってしまいました。
そして休暇になると彼女は父母の許に飛んで帰って来て、相変わらずモギリと、女優と、キャンディー売りの一人三役を
楽しむのでした。
 小学校を終えたフィリスを父母は故郷タルサにあるモンテ・カッシノ・カレッジというベネディクト派の尼僧の経営する
贅沢な学校に入れました。ここの三年間、神に仕えながらの演劇勉強の日々こそ彼女にとってその半生の最も幸福な時代では
なかったでしょうか。出世作「聖処女」でのあの信念に生きる少女の強さと「ジェニーの肖像」での尼僧院での崇高なまでの
美しさは、この時代に彼女が身を以て得た経験のたまものだと思います。しかしやはり休暇には両親の劇団に加わって働くのでした。
そしてその頃、ラジオの演劇コンテストにも優勝した彼女は、真剣に芝居と自分を考えるようになりました。女優になるなら
ブロードウェイのひのき舞台に、そしてアメリカ一の名女優で彼女の最も尊敬するキャスリン・コーネルのようになりたいと
思いました。彼女はその決心を手紙に綴ってコーネルに送りましたが、間もなくコーネルから返事が来て「立派になるには
まず十分な教養を身に付けるように」と書いてありました。
 彼女がジュニア・カレッジを卒業した頃、両親は一座を解散して、テキサス州の映画配給の仕事を始めていました。父母の
劇団で 働けなくなった彼女はマンスフィールド・プレイヤーズの巡業劇団に加わって一夏を過ごした後、ノースウエスタン
大学へ入学して演劇科に学びながら、休暇には地方劇団に入って舞台に立ちましたが、こうして他人の舞台に立つ事になって、
彼女の演技力は驚く程に進境を見せ、主役を与えられるようになったのです。いよいよ自信を得た彼女は正規の勉強をしたい
と、両親を口説いてブロードウェイへの登竜門と言われるアメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツの試験を
受け、幾多の競争者をしりぞけて、待望のアカデミー入りをしたのです。一九三八年のことでした。

恋の訪れ
同じ級友中にソルトレイクからきたロバート・ウォーカーと言う青年がいましたが「僕の何よりの欠点は貧乏なことですよ」
こんな風に自分を恬淡として語る彼に、いつしか心を引かれるようになりました。
 学校では演技力の試練のために、ブロードウェイの有名な舞台を生徒たちが上演するのですが、フィリスとロバートは
「ウィンポール街のバレット家」で恋人役を演じました。これが実感となって若い二人の恋は烈しく燃え上がりました。
一本気な彼女は一日も早く結婚したいと思いましたが、彼女を深く愛する故に貧乏なロバートの苦しみは深く、遂に
休暇で彼女が巡業に加わっている間にアカデミーを去って姿を消してしまったのです。学校へ戻ってこれを知った彼女は
半狂乱となって彼を探し求め、グリニッジ・ヴィレッジの芸術家街にロバートを見出した時、二人は永久に離れまいと誓い合い
ました。そして彼女もあれほど熱望したアカデミーを退き、グルニッジ・ヴィレッジのポール・ギルモアのチェリー・レイン
劇団に加わって「ヘンリーの春」「司教の馬車」「二階の一家」などに出演しました。しかし収入は僅かでとうてい結婚は
できませんでしたが、二人はお互いを持っているだけで幸福だったのです。間もなく彼女が前に出演したことのあるタルサの
放送局から一回二十五ドルの出演料の申し込みが来ました。放送は好評で契約は十三週間に延ばされ、そこへハリウッドの
発見係がテストを申し込んでくると言う喜びが重なって二人は天下晴れて結婚式を挙げました。一九三九年一月二日、
アカデミーへ入学して二人が初めて会ってから丁度一年目の事です。貯金をはたいて青色の自動車を買い込んだ新夫婦は
意気揚々とハリウッドへ乗り込みました。
 しかしこの時、ハリウッドは二人にとって、幻滅の都だったのです。
 彼女はリパブリックで「New Froitire」「Dick Tracy's G-Men」に本名フィリス・アイズリーの名で小さな役にありつけたのが
精一杯の結果でしたし、ロバートはヴォーナーの「冬のカーニバル」に二行の台詞を喋る役をもらったのがやっとでした。
絶望にひしがれた二人は自動車を売って旅費を作ると侘びしくニューヨーク行きの汽車に身を託したのです。
ニューヨークにも冷たい現実は待っていました。下町の汚いアパートの一室に一九四〇年を迎えた二人の間には、四月に
長男のロバートが生まれた喜びがありながら生活は苦しくなるばかり、やっと得た帽子のモデルの仕事も、再び妊娠したために
失わなければなりませんでした。毎日力ない足を引きずって職探しから戻ってくるロバート、そして次男マイケルが生まれた頃、
親子四人は暗い死さえ想うようになりました。


  ロバート・ウォーカー、ロバートJr.、マイケル

運命の気まぐれ
 しかし人生とは捨てがたいものです。偶然な機会でロバートはラジオの仕事を見付け、これが大変な評判となって瞬く間に
生活は楽になり、一家は汚いアパートの一室からロング・アイランドの六室もある立派な家に移りました。そして生活にゆとりが
出来ると彼女の内に抑えられていた演劇熱は昔にも増して燃え上がりました。
 折も折、ベストセラーになった「クローディア」と言う小説を有名な製作者セルズニックが映画化するので主役の女優を
探していると言う話を耳にした彼女は、セルズニックのニューヨークの事務所を訪れ、大勢の候補者と共にテストを受けました。
しかし久しぶりに台本を読んだ自分が失敗だと気付いた時、彼女は人前も忘れて泣き崩れてしまったのです。この時偶然にも
セルズニック自身が部屋に入って来て彼女の上に目をとめました。泣きながら帰ろうとする彼女に、翌日の五時にもう一度
来るようにと、係の者に言わせたのですが、彼女はそれを自分への気休めに言ったくらいに思って、二度とここへは来るまいと
決心して立ち去ったのでした。
 翌日、彼女が気を鎮めようと髪を洗っているところへ電話がかかって来ました。「セルズニック氏自身がテストしたいと言っている」
との声に、彼女は返事もそこそこに髪をゆすぐと表へ飛び出しタクシーに乗りました。矢のように走る車の中で、風は彼女の髪を
乾かしながら、事務所に着くと十ドルのお礼を運転手に押し付けて中へ走り込みました。
 「クローディア」の主役はドロシー・マッガイアに決まりましたが、それから二週間後セルズニックは彼女と正式に長期契約を
結んだのです。とは言え、それまでにヴィヴィアン・リー、バーグマン、ジョーン・フォンテインをはじめ幾多のスターを世に送って
スター売り出しの天才と言われるセルズニックは思うところあってか、彼女をまずサンタ・バーバラの巡業舞台に出しました。
ウィリアム・サロイアンの「ハロー・アウト・ゼア]と言う一幕物で、バーナード・ショウの芝居の添え物だったがショウの芝居より
評判になりました。公演が終わるとセルズニックは再び彼女をニューヨークへ送り、グループ・シアターに入れて演技の修練を積ませながら
進境ぶりを熱心に見守っていましたが、一九四二年二月、セルズニックは新しくジェニファー・ジョーンズと言う女優を契約したことを
華々しく発表しました。このジェニファーと言う名前は彼に娘が生まれたら つけたいと思っていた名前なのだそうです。それから
十か月後、フォックスが「聖処女」の製作を発表した時、セルズニック自身、ジェニファーを監督のヘンリー・キングに推薦したのです。
その結果は映画史上を飾る話題となりました。
 しかし、彼女のこの華々しいキャリアのスタートは同時に家庭生活の終わりとなったのです。その頃ロバートもMGMのドア・シャーリー
に認められて「バターン」に重要な役を演じて以来メキメキ売り出していましたが、彼の妻の成功はそれ以上のものでした。
男として人一倍自尊心の強い彼にとってこれは耐え難い事だったのです。そして彼は一人ジェニファーとの丘の家を去りました。
 ロバートを失った彼女は全身を仕事に打ち込んで行きました。献身的に自分を守り立ててくれるセルズニックの大きな力がありました。
一方、セルズニックの家庭にも冷たい空気が漂うようになったのです。仕事とは言えジェニファーと常に行動を共にして家庭をよそに
する夫の態度は、映画界の名門ルイス・B・メイアーを父に持つアイリーン夫人にとって忍び得ないものとなり、遂に十八年間の
結婚を解消するに至りました。そして翌一九四九年の七月十三日、彼女がセルズニックとイタリア、ジェノバの港外のヨットの上で、
ささやかな結婚式を挙げるまでには幾多の心の試練があったのです。


セルズニックと

横顔
 一度カメラの前に立てば理性的にさえ見える彼女も、普段は大変な内気で試写会やパーティーなどへもめったに姿を見せません。
にも拘らず戦時中には一日十二時間の慰問の旅を続け、二万人の聴衆を前に雨の中に立って愛国の熱弁をふるった事もあるのです。
 セルズニック夫人となった現在も昔と変わらず、一旦お国の為とあれば朝鮮までも飛びますが、ハリウッドへ帰れば、仕事の余暇は
静かに家庭にあって読書と音楽を楽しみ、彼女のレコード・コレクションは有名です。しかし彼女の最も誇りとするのはロバートと
マイケルの二人の愛児です。
 好きな色は黄色、五尺五寸に百十五ポンドのスレンダーな容姿には今もなお少女の様な美しさが見られるそうです。

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